ちょっと前の金曜の夜、建部先生と久しぶりにお酒を飲みに行った。
途中から塾長、そして帰り際には望月先生も来てくださり、楽しい夜(というか朝)だった。
建部先生は僕が入社したときからもう「すごいベッカム」で、三年半がたった今も、「近づけた」みたいな実感はあまりないのだけれど、それでも、共有できるものがたくさんできたな、と思った。
一緒に校舎に入らないこともあって、あらたまって話す機会もそうないが、たかが一分の電話が、極めて多くを物語ることもある。
ここまで来いよ、と僕は思った。
誰に、なのかは書かない。
「俺にだ」「私にだ」と思ってほしい、勝手に。
急がなくていいから、いつか必ず、ここまで来てくれ。
ふらりと現れた塾長は手羽先を食べながら相変わらず超能力みたいなことをやり(詳細は書かないが本当にすごい)、僕はそれを恐れ多く聞きつつも、アルコールのせいもあったのか、この三年半が頭の中をぐるぐると回り、自分の歩んできた遥かな(くらい言っていいと思う)道のりを想った。
思えばそのほとんど全てを、塾長は、「箸本は放っておきゃいいんだ」という目で見てきてくれた。
その決断が、「放っておかない」よりどれほど勇気の要ることか、僕はわかると思う。
「放っておく」しかなかったわけじゃない。
「放っておく」を選んでくれたのだ。
「放っておけ」と突き放してきたわけじゃない。
「放っておけ」と、見守ってきてくれたのだった。
そうして、二年目、豊川本校を校長気取りで走っていた僕を、ある意味で「好き放題」やらせてくれたのは、望月先生だった。
校長になった今だから、僕の見えないところで、望月先生がどれほど引き受け、どれほど目をつむっていてくれていたかがわかる。
あの二年目がなかったら、三年目、豊川で校長になっていなかったと思う。
建部先生と望月先生と一緒にいると、一年目に二川校に三人で入っていた頃に戻ったみたいだった。
まだ新卒中の新卒だった春の頃、「講師シフトの関係で二川校を外れてくれないか」という塾長の打診に「嫌です」と言った自分と、それを「あそーう」と受け入れてくれた塾長のことを思い出した。
何でそんなことが言えちゃうかなあ、社長に。
二十三の頃の俺よ、お前はアホか。
でもあのとき「嫌です」と言っていなかったら、今、二川の校長やってないかもしれないな、ことによるとね。
四時に店が閉まり、ビールとウィスキーでほどよく酔った僕は、部屋まで歩いて(十分くらいだ)帰った。
何ていうか、アスファルトの香りがもう、夏、って感じで。
帰り道、携帯電話を見ると、実家の母親からメールが届いていた。
僕が小学校を卒業するときに記念樹として植えたザクロの木が、今年、初めてひとつだけ花をつけたのだと、写真が添付されていた。
忘れてた。ザクロのことなんかは。
だからそれについて何を思えばいいのかもよくわからず、「最後に歩いて部屋に帰ったのがいつだったかも思い出せねえなあ」とそれだけを馬鹿みたいに考えて、歌を歌いながら、僕は部屋に戻った。
「全てが輝いてるこんな日には争いも黙るだろう…」
十五年かけてひとつだけ咲く花もある。
八年かけて実ろうとしている人もいる。
まずは半年もちこたえたつぼみもある。
三年半で辿り着いた場所がある。
八ヵ月後に描く風景がある。
その最初のひと筆が、もう、そこにある。
そういう何もかもが美しく輝いて、シャイニー・デイ。 |