ちょっと前のことになるが、豊橋本部で代表(今回は敢えて「塾長」と書かない)から衝撃的な助言(と言ってよいものか…)を受けた。
「数字を追うな」。
僕は平静を装って「はい」とか答えたものの、その後、別の部屋に行って煙草を吸いながら、頭がくらくらした。
何てことを言う人だ、と思った。
言えねえよな、普通。
だって経営者だぜ。経営者が数字を追わなくてどうする。
営利を目的として経済活動を行う組織、それが企業の定義。企業が数字を追わなくてどうする。
で、まあ当たり前だけど、代表にはそんなことわかってる。
わかっていて、敢えて、企業の根本的原則を覆しかねないことを言う。
「数字を追うな」。
代表は「経営者」と同時に「指導者」であって、その両者のスタンスは、表面的には、ときに矛盾する。
だから、別の場面では「数字を追え」とも言い得る。
仮に、「数字を追うな」という助言の五分後に「数字を追え」と言われたとしても、僕は納得しただろう。
どういうことか。
たとえばあなたが誰かに対して、強い愛情を感じるとする。
また一方で、強い憎しみを感じるとする。
それは表面的には矛盾しているが、相手のことを強く想っているという点では変わらないかもしれない。
ことによると、愛情と憎しみはそう遠からざるものであり、両者から遥かに離れるのは、マザー・テレサが言ったように、無関心、ということになるのかもしれない。
経営者としての発信であれ、指導者としての発言であれ、代表の場合、それは「伸ばす」という煮えたぎるマグマから噴き出すものの一端に過ぎない。
ただ、「伸ばす」対象は、生徒であったり、職員であったり、あるいは企業であったり、というふうに様々であるから、表面的には矛盾して見えるだけだ。
そういう中で、「今」、何を対象にするのか、つまり、何を前にするのかを選択してゆく。
あの瞬間、代表にとって、それは箸本竜也だったのだろう。
圧倒されて、ノーマルな「ありがとう」しか言えない自分に失望したが、嬉しかった。
そして僕としては、代表の助言を受け入れる一方で、受け入れない。
なぜなら、無上の優しい助言であれ、企業の人間として「数字を追うな」などと言ってもらって、単にありがたがっている場合ではないからだ。
それじゃダサすぎる。
だから、受け入れるけど、受け入れない。
矛盾してるが、僕はそういうふうにやっていきたい。
表面的な矛盾の指摘者になることはわりに簡単だし、生き方としても楽だ。
「さっき逆のこと言ったじゃん」。
わかってるって。
「その盾は何も突き通さないって言ったじゃん。その矛は何でも突き通すって言ったじゃん。変じゃん。おかしいじゃん」。
うるせーよ。じゃんじゃんうるせーよ。
そんなことわかってるって。
マジに生きてるから、矛盾を避けることができない。
つじつまを合わせることだけに気をつけて生きていくなら、人から非難を浴びる機会も減る。
でも、そんな生き方がしたいのか?
両方とも取りにいきたいんだ。
両方とも本当なんだ。
相手の矛盾をどこまで受け入れられるのか。
自分の矛盾をどこまで引き受けられるのか。
何とかして解消すべき矛盾なのか。
抱えていくしかない矛盾なのか。
解かれないからこそ価値のある矛盾なのか。
そして、矛盾してはならない極点はどこなのか。
「私の盾も矛も無敵ですよ」と誰かが言う。
僕は、表面的な言語の矛盾を笑うのではなく、その人がどんな思いで盾と矛を両手に掲げているのかを知りたい。
「あなたの盾も矛も無敵っておかしいですよ」と誰かに言われる。
僕は、「そうですね。でも盾も矛も本当に最高なんですよ」と笑いたい。
そう笑えるような盾と矛を追わなきゃならない。
持つべきは、矛盾のキャパシティ。
欲しいのは、人間のリアリティ。
あっちでは盾だけ売って、こっちでは矛だけ売って、そんなふうに生きるつもりはない。
仮に盾はボロボロで、矛はツギハギのときがあっても。
あなたたちの前において、箸本竜也という人間は本当だから。 |