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岡崎先生にしかわからないかもしれないが、この文章のラストは、僕が最も好きな小説のひとつ、レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」のパロディである。
長神先生のせいで(って別に責めてないですが)、久しぶりに「一人である」ということについて正面きって考える機会があった。
一人が好きなんですか、とたまに聞かれる。好きだね、と僕は答える。
ただ、それを説明するのは難しい。
カツオ(サザエさんの弟、ではなく、食べる魚の)が好き、という「好き」とは違う。
テニスが好き、という「好き」とも違う。
あなたのことが好き、という「好き」とも違う。
誰かといるのが嫌いなわけじゃないし、一人の時間が絶対に必要、とかいうのとも違うと思う。
僕が一人が好き、というのは、敢えて言うなら、「僕は一人でも圧倒的に大丈夫」ということじゃないだろうか。
僕は仕事を除けばほとんどいつも一人でいるが、別に孤独を感じるわけでもない。
だいたい、簡単に「孤独」とか言っちゃいけない。
そんなふうに言う人間は大抵、本当の孤独なんて知らない。
本当の孤独って何でしょう?わかりませんね。だから簡単に言えない。僕が思いつくのは、自分を孤独から救い上げてくれていた誰かを、決定的に、恒久的に失うこと、という回答くらいだ。
本当の孤独とは、いったん孤独の底に沈んで、そこから水面に浮き上がって、もう一度深海へ引きずり込まれることであるような気がする。ただの想像ですけどね。
そして思うに、多少温かい言い方をすると、大抵の「孤独な」人間は、自分が思っているほど孤独じゃない。
さて。
ひとつ言えるのは、一人であることを楽しめる僕の傾向は、自然発生的なものではなく、自らの選択であり決定である、ということだ。
たとえばカツオを好きになることに選択の余地はない。好きなものは好き、というアレだ。
しかし僕の場合、一人でいることが好き、というのは単なる「好み」の問題ではない。
それは、僕が十代の後半に選びとったひとつの生き方だからだ。
十五の頃、寂しいという感情から自由になろうと誓った。
一人で絶対に大丈夫な人間になろうと。
どうしてそんなふうに思ったのかわからない。
それが強さのような気がしたのかな。
今思えばちょっとわけがわからないし、浅はかだったとも思うが、どうしても十五の少年を責める気になれない。
とにかく、僕は自分のひとつの生き方としてそう決めて、それを実現するために、思いつく限りのあらゆることを、数年間にわたって実行していった。
断っておくが、それは「努力」というクリーンな言葉でくくれるような時代ではなかった。
もっと血生臭く、残酷で、ある意味では悪意に満ちていて。
間違いだったのかもしれないと、ときどき思う。
多くの犠牲を払いすぎたと、ときどき思う。
でも、後悔したことは一度もない。
ひどい時代だったかもしれないが、それを通じて、僕は学んだからだ。
本当に「こういう人間になりたい」と望み、「こう生きよう」と決めて、そのためにあらゆる手段を惜しまず生き抜いていけば、そうなれる場合もある、ということを。
一人が好き、というのは、それ自体、正しくも間違ってもいない。
この世には善も悪も正しいも間違っているも本当に明確にはなく、戦争も煙草をめぐる議論もその一端にすぎない。
じゃあ、何があるのか?
思うにそれは、勝敗と自己決定ではなかろうか。
何が勝ちで何が負けかという問題はここでは扱わないよ、面倒くさいから。
極論すれば、それはあなたにしか決められないことであって。
ただ少なくとも、戦ったのか、ということ。
そして少なくとも、自分が選びとったものなのか、ということ。
一人であることを好きでいられる、それは僕が選びとり、勝ちとったものだ。
簡単に手放してたまるか。
そのことに、多くの場面で助けてもらった。
こういう人間でなかったら、耐えられないことがあったろう。
こういう人間でなかったら、見つめられないことがあったろう。
もちろん、こういう人間であればこそ、招いた不運もあったろう。
こういう人間であればこそ、避けられなかった過ちもあったろう。
だから繰り返し、そこには善も悪も正も誤も可も不可もないが、何であれ、自分が選んだ生き方であることに変わりはない。
そういう人間になれて……よかった、と単純には言えないが、少なくとも、悪くない。
感じとしては、悪くない。
一人で、大丈夫。
そのことが今、全てのことを埋め合わせてくれている。
何もかもを。
ただし、ある種の空白だけは別だ。
その空白を埋める方法は、いまだに発見されていない。
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