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リリーというのは最近できた僕のイギリス人の恋人、などではなく(そんなものできるわけないじゃないか)、愛車の日産ティーダに僕が勝手につけた名前である。
僕はかなり「モノ」に対する愛着を持ってしまうほうだと思う。
だから、捨てられない。部屋を見渡して見ると、あまりにもモノが多すぎる。たぶん、本当は捨てるべきであるはずのモノが多すぎる。もう使わないよな、もう要らないよな、もう持ってるべきじゃないよな、と思いつつ、「でもなあ……」と考えてしまう。
それはたぶん、記憶、に関係する問題なんだろう。ある一つのモノの向こうに、自分がどんな光景を見ているか、誰の顔を見ているか、ということなんだろう。
昔の人は、自然物だけではなく、全てのモノ、人工物にも魂が宿ると考えた。だから、人形の髪の毛が伸びるとか、傘が化けるとか、呪われた屋敷とかいうストーリーが生まれる。
僕はそこまで極端じゃないけれど、年月を重ねるにつれて、モノは記憶や想いとの結びつきを深くしてゆく。
高校時代に使っていたラケット。二度とあんなサーブは打てないな。
十九年間を過ごした僕の家。僕の帰るべき「家」は今のところあの場所しかない。
八年間も着続けているコート。ずいぶん古ぼけてしまったけれど、こいつを着てどれだけ最悪の冬を乗りきってきたか。何度も。
五年近く使い続けているジッポー。どんな場所にいても、どんな気持ちでいても、僕はこのライターで火を灯し続けてきた。それはときには、自分を温める最後の手段だったり。
モノに縛られた感性は寂しい。
しかし、モノをただのモノとして突っ放すだけの感性も、それに負けず劣らず寂しいんじゃないかと僕は思う。
僕のリリー。
無茶な運転にも、よく付き合ってくれてる。
寒々しい気分のときほど、耐えられなくなりそうなときほど、僕は君に乗り込んで、夜の街をあてもなく走ってきた。
モノはただのモノだ。でも、それだけじゃない。
もうすぐ完成のテキストを手にとって、ぱらぱらとめくってみれば、わかる。
真夜中、一人きりで、誰も座っていない机と椅子の前に立ってみれば、わかる。
黒板、チョーク、机、椅子、テキスト。
それが僕たちの一部。
全てがただのモノでしかないなら、ここに立つ僕たちは寒すぎる。
ごめんよ、リリー。
最近は洗車もしてないし、助手席には買ったCDとか煙草の空き箱とか頭痛薬とか置きっぱなしでぐちゃぐちゃだけど、ちゃんと綺麗にするから。
今度の週末、京都にでも行こう。二人で。 |